衆議院議員
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はせ 日記
平成23年
5月2日(月)

5月1日
5月3日


■5月2日(月)

 4時起床。
 ニュースチェック。
 近所の焼肉チェーン店「焼肉酒家えびす」で、ユッケ(生肉)の処理が問題で、死亡事件が起こる。
 食中毒。
 もっちゃんが、昨日言っていたが、
 「ちょうど事件が起きた日に家族で焼き肉を食べていて、事件が起きたということで、ニュースが発覚した時間に店にいた人は、全員無料になったんですよ! うちも無料になったんですけど・・・」と。
 それもまた、嬉しいような嬉しくないような・・・

 午前5時、自宅前の「オンエア」を出発。
 一路、仙台へ。
 被災地支援と視察。
 救援物資は、どのう袋1600枚、プラスチック食器2000個、ティッシュ段ボール2箱、子供用おもちゃ・付録付き雑誌。
 物資が俺の車だけでは入りきらず、急きょ、西川さん・中野秘書・荒井秘書も同行することに昨夜決定した。
 福野夜高祭りから帰ってきたのが夜中の11時半。
 それから準備して寝たのが午前様。
 さすがに、眠い。
 しかし、被災地の皆様のほうがよっぽど辛いのであって、気合を入れて北陸自動車を北上。
 森本インター〜名立谷浜SA〜新潟中央JC〜(磐越自動車道)〜磐梯山SA〜郡山JC〜(東北自動車道)〜仙台宮城IC。
 東北道を下りて仙台市街地に入ると、自衛隊の車が増える。
 この時期、自衛隊車を見ると本当にほっとするし、感謝の気持ちがわいてくる。

 待ち合わせの宮城県庁前に到着したのは、午前11時半。
 金沢を出てから6時間半。
 およそ570キロ。
 磐越道ができたおかげで、とても近くなった気がする金沢市と仙台市。
 待っていてくださったのは、22年来の友人、山岸さん。
 アントニオ猪木さんの参議院選挙を1989年に仙台で手伝ってくださった、有能なボランティアスタッフ。
 今回も、山岸さんはふるさとの石巻市を中心に、ボランティア活動中。
 何度も電話で支援要請をいただいた。
 やっと実現したのが本日。
 遅れて申し訳ない。

 本日のスケジュールをカンタンに打ち合わせし、そのまま石巻市へと向かう。
 仙台東ICから三陸自動車道に乗り、石巻河南インター下車。
 午後1時より1時半まで、最初の訪問地は、蛇田中学校体育館。
 近隣4地域の避難所となっている。
 同時に、蛇田中学校は先週より学校再開。
 つまり、避難所と教育活動が同居。
 避難所の生活ぶりを視察後、中学校の校長室で、斎藤校長より、Q&A方式でお話をうかがう。

 「体育館の状況は如何ですか?」
 「石巻市内の近隣4地域からの避難者が、200名ほど生活しています。」
 「教員人事は、どうなっていますか?」
 「4月1日付けで、新人事が発令されています。 兼務発令です。 つまり、以前の学校で被災児支援や業務が残っている教員は、その業務が終了してから新赴任地に向かうことになっています。 兼務です。」
 「教員でも被災された方がいらっしゃるんじゃないですか?」
 「数名います。 特別休暇を利用しながら、自分の家を片づけたり、新しい生活に向けて走りまわっています。」
 「東日本大震災対応ということでの加配教員の申請はしなかったんですか? 義務標準法改正案に盛り込んだのですが?」
 「解釈の違いでしょうか、申請しておりません・・・」
 ここは歯切れが悪かった。

 お話をうかがっていると、当然、大震災が原因の業務が増大しており、十分、加配教員を申請できる、いや、すべき対象だと思われたのだが。
 宮城県教委から、加配定数を申請できる場合の要件が、厳格に示されているようでもあった。
 ここは、文部科学省に問いただしておく必要があろう。
 ただでさえ新年度が開始となり、抱えきれないほどの校務分掌。
 そこに大震災で、児童生徒への配慮が負荷された。
 教員自身も被災者。
 家が全壊や半壊、家族が犠牲に・・・
 そういう環境下にある以上、加配定数を配分すべきだと思うのだが。

 「今後、教育活動への影響において、どういうことが心配ですか?」
 「体育館が避難場所では、体育の授業や全体集会ができません。 今日みたいな強風の日や雨の日に体育館が使えないと、影響がありますね。 それに、この運動場を仮設住宅用にと提供しなければならないかもしれません。」
 「仮設用に?」
 「用地が足りないようです。 でも、運動場が仮設住宅になると、ますます子どもたちの体育や部活動に影響します。 それに、教育現場と仮設住宅が同じ場所では、教育環境として如何でしょうか・・・」
 と、言葉を選びながらのお話であった。
 そりゃ、校長としては、仮設住宅生活と教育活動の混在で、戸惑いのほうが多かろう。
 菅総理は、このことが分かっているのかな?
 「8月のお盆前までには、仮設住宅に、希望者全員が入居できるようにする!」
 と、豪語しているが、平地の少ない沿岸部では、結局、小中学校のグラウンドしか確保できない。
 それですら、仮設住宅用土地が足りない、との声も。
 ましてや、教育活動との混在という問題。
 蛇田中は、生徒数500名余。
 ここの体育館に、避難者が200名。
 プライバシーは、あってなきがごとしの環境。
 強風の中、グラウンドで体育の授業に、汗を流す中学生を横目に見ながら、移動。 

 午後1時50分から2時15分、次の訪問地は、石巻市立貞山(ていざん)小学校。
 こちらでは、斎藤校長にお話をうかがう。
 「学校は、いつから開始されましたか?」
 「4月21日に始業式、22日に入学式。 25日から午前授業のみ。 集団下校も行っています。」
 「どうして、午前授業なのですか?」
 「学校給食が間に合わないのと、教職員の業務が追いつかないからです。 子どもを受け入れる準備のためにも、先生にもウォームアップ期間が必要です。 GW連休明けには通常授業にしたいのですが。」
 と、学校運営に頭を痛めている様子。
 懇談させていただいた校長室は、カーペットが剥がされてむき出しのコンクリート。
 「どうしたんですか?」
 「膝上あたりまで学校も床上浸水したんですよ。 ようやくここまで掃除したんですが、カーペットは泥だらけで使いものにならず、はがしたままです。 体育館のフロアも波打ったままです!」
 「体育館にも泥が入ったんですか?」
 「はい。 自衛隊の皆さんのおかげでなんとか泥はかきだしたんですが。 その体育館にも、避難所にする予定なんです。 体育の授業はできませんし、全体集会は多目的室でするしかありません。」
 「入学式は、無事にできましたか?」
 「なんとか。 ただ、予定していた新入学生が一人、幼稚園バスごと流されて亡くなったんです。 そのお母さんが、なんとかお友達と一緒に入学式に出席させてほしいとお願いされまして。 校長判断で出席していただきました。 お母さんは、遺影を持って、出席されまして、新1年生の名前を読み上げる最後に、そのお子さんの名前を読み上げましたが、お母さんが遺影を持ってお立ちになりました・・・」
 「人事は、兼務発令ですか?」
 「はい。 被災した教員は、車のローンと家のローンと二つ抱えて、それに勤務校も二つ抱えて、それに小学校の先生は女性が多いですから、勤務と家事と子育てと介護と、本当に大変です・・・」
 そりゃそうだろう。
 本当に頭が下がる。

 「国に対して、何か言いたいことはありますか?」
 「小学校は地域の避難所です。 でも、貞山小学校は水没しました。 水も食料もありませんでした。 今後は、地域の避難所として、水没しないような整備をお願いしたいんです!」
 と、切実に、こうおっしゃる。
 「とりわけ、備蓄倉庫として以下の物資は常備が必要です。 缶づめ食糧・水・毛布・ティッシュ・燃料・緊急時電源・赤ちゃんミルク。」と。 

 午後2時40分から午後3時半、山岸さんの母校、石巻中学校へ。
 境校長に、お忙しい中を面談していただく。
 感謝。
 「学校は、いつから始まりましたか?」
 「4月21日始業式、22日入学式です。 でもそのあとは臨時休校です。」
 「え? どうしてですか?」
 「校舎も、体育館も、避難所になっているからです。」
 「そんなに?」
 「ここは高台にありますが、海岸に近い小中学校のある地域は、火災でやられたんです。」
 ・・・そうだった、テレビで見た。
 町が燃え盛っていた、それがこの地域だった。
 「あの日、津波が来るということで、市民は車で校庭に逃げ込んだんです。 津波が近隣の家を校庭に運んで、その家が車を押しつぶして、ガソリンが漏れ出ました。 ガソリンに引火して大火災となったのです。」
 と、恐ろしい光景を思い浮かべながら教えてくださる。
 「だから、海岸に近い市街地の小中学校近隣の皆さんは、多い時では2000人が、この石巻中学校に避難されていました。 今日現在は302人です。 ここから2次避難所へと移られています。」
 「臨時休校の間、子どもたちはどうしているんですか?」
 「ボランティアとして、できることをするように指導しています。 それと、午前中は部活動に来ていますよ! 部活動には全員が参加することになっているんです!」
 それで、校舎の周りに中学生をたくさん見かけたわけか!
 「学校給食は、どうなりますか?」
 「石巻市は3つの給食センターがありましたが、そのうち二つはだめになりました。 稼働しているのは一つだけですから、授業開始しても当分はパンと牛乳だけです。 栄養価の高いものを与えたいのですが、牛乳とパンがあるだけでもありがたいことです。」
 「被災した生徒や、教職員はいますか?」
 「もちろんです。 就学支援金を活用して対応しますが、はやく安心させてやりたいですね。 教職員は特別休暇を活用して、自分の家のこともなんとかやっています。」
 「避難所となっていますが、今後の見通しは?」
 「グラウンドに仮設住宅を造る予定ですが、それでは教育環境としては、影響が大きすぎます!」
 と、こちらも言葉を選びながら、政府の仮設住宅建設無計画ぶりに、いら立ちを隠せない様子。
 「被災した方々は、生活できる居住環境とともに、経済活動が必要なんです。 この1ヶ月間、泥掃除しかしていない石巻市民が、どんな想いを持ってふるさとの再興を目指しているかを、政府の皆さんも見てほしいと思います!」
 と、こちらも教育者らしく言葉を選びながらも、核心をズバリ。
 「商店街のみなさんも、中小事業者も、大企業も、仕事がなければ生きていけないんです! 生活できなければ教育も福祉もないんです! 日本製紙の工場が、この地で工場を再開すると決定してくださったことは、石巻市民として、本当にうれしいことなんです!」 

 ご挨拶後、午後3時45分から4時半まで、すぐ近くの日和山公園へ。
 山岸さんは、是非ここから一望できる石巻市街地を、見てほしいという。
 山岸さんが中学生時代、放課後(ときどき授業中?)はいつも通っていた日和山公園から見える風景こそが、大震災の生の姿だという。
 季節外れの強風にあおられながら、日和山公園へ。

  日和山公園は、石巻市ほぼ全景を眺望することのできる高台にあり、市民憩いの場所。
 ところが今は、惨状を目の当たりにする確認場所。
 多くの市民が思い出を胸にやってきたり、多くのマスコミやボランティアが、何が起きたのかを確認するために足を運んでいる。
 同行した西川さん、中野秘書、荒井秘書は、言葉もなく佇み、ただただ手を合わせて市街地を見つめる。
 あのがれきの下に、あの浸水した泥の中に、あの海の中に、まだまだ数百・数千の行方不明者がいる。
 そう思うと、日和山公園の遅咲きの桜の花も、その花びらすら非情に見えてくる。

 「馳さん、そこに立って見下ろしてごらん!」
 と、山岸さんが指さす方向には、どこもかしこも、がれきの山。
 車が、何台もひっくり返っている。
 電柱も、あちこちで倒れている。
 家もビルも商店街も、焼け跡。
 なにか、空爆の跡のようにも見える。
 ベイルートで観た空爆の跡よりも、ひどい。
 呼吸ができなくなって来て、背筋が身ぶるいする。
 この惨状を、菅総理はじめ閣僚や、国会議員全てが、目に焼き付けるべきだ。
 与野党で生産性のないいさかいを、遠い永田町でしている暇があれば、この現場に来るべきだ。
 そして、為すべき特別立法や予算執行を、即、実行すべきだ。

 街中のがれきの中に道がある。
 自衛隊の皆さんのおかげで、何とか道は付いている。
 その道を、何かを探すように、多くの市民が右へ左へと歩いている。
 ずっと歩きつづけている。
 この街は、どうやって再興すべきなのかを、ずっと考える。
 ここは、今歩いている人たちのふるさと。
 ここは、生活の場所であり、想い出の場所であり、将来の世代に、いつまでも残していかなければならない場所。
 私たち、国会議員は、自分の選挙区だけでなく、この被災地こそが、日本の現状だと認識すべきだ。
 自分が、ここに生まれて、ここに生活している、その存在意義を知るべきだ。
 日本人とは何だろうかと、気づくべきだ。
 そういう気持ちで、特別立法や財源確保や、予算措置に、迅速に取り組むべきだ。
 菅総理はじめ一部の官邸の人間は、通常国会を一度閉会し、8月以降に臨時国会を再開して、2次補正をやろうとしている。
 バカじゃないのか、そういう発想自体が。
 この惨状を見たら、日曜日だって祝日だって働くべきだ。
 ふるさとを失うかもしれない人たちの前で、国会休会とか、2次補正先送りみたいな、そんなバカなことは言えないはずだ。
 ・・・そう思いながら、段ボール箱に描かれた石巻市民憲章を見つめる。

石巻市民憲章

 まもりたいものがある
 それは いのちのいとなみ 豊かな自然
 つたえたいものがある
 それは 先人の知恵 郷土の誇り
 たいせつにしたいものがある
 それは 人の絆 感謝のこころ
 わたしたちは 石巻で生きてゆく
 共につくろう 輝く未来

 津波から、もう50日以上経っているというのに、被災地はいまだがれきの山。
 この市民憲章のように、先人の知恵をつなぎ、郷土の誇りをつなぐために、人の絆と感謝のこころで再興すべきだ。
 未来はやってこない。
 自分たちで、作り上げるべきだ。
 歴史は、誰かに守られるものじゃない、当事者が守るべきものだ。
 公園内を歩いていると、声をかけられる。
 「馳さんじゃありませんか?」
 「そうですよ。」
 「東京シューレのものです。 ボランティアに来ているんです。 奥地先生もいますよ!」
 と、聞いて、えええええええ〜〜〜〜っとびっくり。
 人のご縁とは、まさしくこういうようなものか。
 俺は、ボーイスカウトの制服を着ていたのだが、奥地先生も、すぐに泥を掬いあげられるようなかっこうで、視察中。
 「あ〜〜〜、どうしたの馳さん!」
 「現地視察と、救援物資を持ってきたんですよ!」
 「一人で?」
 「いえいえ、金沢から秘書と。 奥地先生は?」
 「東京シューレのスタッフと一緒にゴールデンウィークはボランティアよ。 ところで、フリースクールのことをお願いしようとしていて震災になっちゃったもんだから、またね!」
 「そうなんですよね。 民主党の寺田学さんや小宮山洋子さんとも、予算が上がったらやろうと打ち合わせしてたんですが、こうなっちゃったもんですから話が進んでいないんです。 落ち着いたらフリースクール議連やりましょう。 そういえば、5月16日の12時から、参議院101号室で、チャイルドライン支援議連の総会と記者会見がありますよ!」
 「あら、そうだっけ?」

 「議題は、GW中のチャイルドライン特別活動報告と、この震災支援を支援議連でも何とかしましょうという総会と記者会見です。 奥地さんも時間があったら顔出してくださいよ!」
 と、思わぬ場所でスケジュール調整までさせていただく。

 公園では、小学生の男の子と女の子の兄弟が、走りまわって遊んでいた。
 山岸さんの母校の小学生だった。
 声をかけると、人懐っこそうに寄ってきて話してくれた。
 自分たちの町が焼け、知っている人たちが津波に流され、死んでいくという凄まじい光景を見たであろうに、子どもは明るかった。
 子どもたちの未来のためと言いながら、子どもたちに助けられている自分もいることがわかった。

 日和山公園を下り、石巻市街地を通過して、女川町へと海岸沿いの道を走る。
 地盤沈下のせいでか、まだ、道路のところどころは冠水。
 満潮時は、もっと海水が入り込んでいるという。
 渡波(わたのは)交差点には、ガードレールの上に自動車が乗っかったまま・・・
 いつまでこうしておくのか。
 法律の壁か、予算問題か、持ち主が見つからないのか、行政の判断で勝手に処理できないのか・・・ 

 午後5時10分には、女川町臨時教育委員会が入っている、女川町第2小学校到着。
 校長室が、臨時教育長室となっていた。
 プロレスファンの若い教職員に、空手チョップをして記念撮影、それから、教育長室へ。
 遠藤教育長に時間を取っていただき、およそ40分、山岸さんといっしょにお話をうかがう。
 「女川町は、高台以外はほぼ全壊ですが、いつから学校を再開されたのですか?」
 「4月12日に始業式をしました。 出島(いづしま)と江の島のふたつの島があるのですが、自衛隊の皆さんが救出してくださったおかげで、子どもたちの居場所としての学校を再開できました。」
 「どうして、そんなに早くできたんですか?」
 「マスコミ報道のおかげで、救援物資がいち早く届いたからでもあります。 それと、子どもが学校に行けば、保護者もここにいなければならなくなります。 学校再開こそが、女川町復興の希望なんです。」
 ・・・なるほど、そういう発想は、マニュアルではできない。
 「私の一存で決定しました。 みんな生まれ育ったこの街が好きなんです。 被災者も、できるだけ町を離れることのないようにと考えたら、まずは学校を再開することだと思ったんです。」と。

 「学校再開にあたって、準備したことは?」
 「スクールバスを10台、町にお願いしました。 それから宮城県学校給食会が協力してくれたので、簡易給食を確保できました。 あとはボランティアの皆様の炊き出しで栄養を補給しています。 常温保存の食材しか使えないので、子どもたちには早く温かい給食を食べさせたいですね!」
 「どんくらい水が浸かったんですか?」
 「私の家は高台で、28メートルのところにあるのですが、そこまで水が襲ってきました。 30メートル近い水の壁が襲ってきた、という印象です! 一波二波三波で町は壊滅しました。 住宅の7割は流されました。 1800名余りが避難所にいました。 出島と江の島からは緊急避難してきています。」
 ・・・淡々とお話される内容が凄過ぎて、メモをとる指が震える。
 「学校再開にあたって、学用品や教科書はそろいましたか?」
 「宮城県生協や、ユニセフからの支援物資がすぐに届きました。 これも報道のおかげです。 教科書は4月6日に揃いましたし、ノートやコピー機まで届きました。 ありがたいことです。」
 「学校再開を急いだ決断は、どういう理由からですか?」
 「教職員の動きが早かったこと、青空教室であってもとにかく学校を開いて、子どもたちに希望を与えようとの教職員の熱意があったからです。 それと、3月25日の時点で学校再開のための物資が揃っていましたから。 阪神淡路大震災の教訓が生きていたんです。」
 「被災の現状は、如何ですか?」
 「女川町は、3月5日時点で人口10010人いました。 そのうち生存確認されているのが8900余名。 死亡457名、行方不明者700余名。 震災孤児は小中学生5名、高校生1名。 親戚に引き取られました。」
 「こういう状況ですが、これからの学習計画や、進学対応はどうしますか?」
 「学校図書館を開放しています。 5月13日からは自学自習のための午後6時から8時半まで夜間教室を開放します。 それと、教職員の理解が得られたので、昔懐かしい日宿直制を復活しました。」

 「では、こういう支援が必要だということを、教えてください!」
 「保護者が失業状態なので、仕事をください。 それから高校受験用の参考書がありません。 辞書も流されてありません。 子どもたちのメンタルケアは必要ですので、スクールカウンセラーや、心理療法士は必要です。 そういう意味では、養護教諭や生徒指導や教科指導の加配定数をお願いしています。」
 「女川町の将来に対しての、こうしてほしいという希望はありますか?」
 「1メートル20p地盤沈下しました。 満潮時には冠水します。 何とかしてください。 企業誘致できる街に戻してください。 経済的な営みができるようにしてください。 雇用の確保です。 町民が外へ流出しないように、そういう意味でも学校を早く立ち上げたんです。 町の復興と学校とは同時進行ですから。」
 「子どもたちが楽しみにしている学校行事や、町の行事はありますか?」
 「5月3日が神社の祭りだったんですけどね・・・学校行事の中では、運動会をやってみようという声が残った町民から寄せられています。 6月中旬には、中体連の石巻大会予選会がありますから、それはやってあげたいと思っています。 学校でいろんな行事をやって、それを応援することが希望なんですよね。 7月最後の日曜日には港祭りがあって、いつもは町民の10倍の人が集まります。 9月中旬のサンマ収穫祭には、7〜10倍の人が集まります。 女川高校では、復幸祭を開催しようと計画しています!」
 「子どもたちへの支援として、ほかに要望はありますか?」
 「修学旅行の積立です。 3年生はいいんですが、1〜2年生はこれから積立です。 就学援助を早急にお願いいたします。 生活保護世帯も準要保護世帯も増えていますから・・・」
 「町を元気づけるイベントは、ありますか?」
 「仙台フィルが5月13日に、野村万作さんが5月16日に来てくださいます。 女川町出身の中村雅俊さんのコンサートも先日ありました。」
 「避難所の様子は?」
 「以前は、最大2000人ほどいましたが、今は900人です。」
 「仮設住宅の予定は?」
 「高台の土地でなければなりませんから、限られています。 学校のグラウンド、公共施設、国有地です。 なんせ30メートル以上の高さまで水が上がりましたから・・・民有地を国が買い上げてくれないと、女川町の復興はあり得ませんね。」
 このあと、学校内を視察させていただく。

 全国から寄せられた学用品や、運動靴など、きれいに整理しておかれている。
 職員の皆様の努力のほどが良くわかる。
 ピロティの一角には、手作りの図書館もあった。
 子どもたちの学ぶ環境を、なんとかして整えてあげようとの配慮が、そこかしこにあった。
 遠藤教育長には、わざわざ玄関までお見送りをいただいた。
 感謝。 

 来た道をそのまま通って、石巻専修大学へと向かう。
 渡波(わたのは)交差点のガードレールに打ち上げられた車はそのままだったが、道路を挟んでその前にある学習塾とそろばん塾は、明かりがついて、営業していた。
 こんな状況下でも、勉強しようと励んでいる子どもたちと、それを支える人たちがいることに、希望を垣間見た。
 移動中の車の中で、山岸さんにお話をうかがう。
 「子どもたちが妙に冷めてるんですよね。 無関心、無感動、無口、無表情、無神経、無責任っていうのかな。 投げやりになってたり、あきらめの言葉ばかりが口をついて出てきて。 それって、親がそうだからかもしれないし、街全体がそういう空気だからかもしれないんですね。 だから、子どもたちに喜怒哀楽を蘇らせてあげたいんですよ。 思いっきり泣いたり、怒ったり、喜んだり、楽しかったりっていう、そういう人間的な感情を蘇らせる必要があると思うんです。 ほっといてくれっていう子どももいるんだけど、コンサートやエンタメすると、やっぱり身体を動かしたり、笑顔を見せてくれたりするんですよね。」
 ・・・そういう支援も、是非必要なんだろう。
 もうすっかり暗闇になった石巻専修大学に入ったのは、午後7時。
 ここは、ボランティアセンター本部。
 ここの資材倉庫に、持ってきた救援物資を届ける。
 土のう袋、スーパー軍手、おもちゃ、雑誌、プラスチック食器、ティッシュ。
 2台の車いっぱいに、テトリス状態で積み込んだ物資をすべて下ろすと、少しは責任を果たせたような気持ちになる。
 そのまま、教室内で行われていた分科会に出席。

 ボランティア部隊を仕切る会議。
 それぞれの分野での活動報告が行われ、必要な情報交換が行われ、そしてボランティア村の運営が決められていく。
 その仕切り役をしている人が、あまりにもテキパキとしているので、
 「あの人、プロのボランティア?」
 と、そっと山岸さんにうかがうと、
 「違う違う。 あの人は土建屋のおやじ。 仕事がなくなって、仕方なくこのボランティアセンターのお手伝いをしていたら、いつの間にかリーダーになったのよ!」
 ・・・なるほど、土建屋の親父ね、どうりで仕切り役がうまいと思った!
 仕切っている内容は、以下の通り。
 ・ メディカル
 ・ リハビリ
 ・ エンターティメント
 ・ 整体マッサージ
 ・ マッドバスターズ(泥掃除回収)
 ・ ローラー(チラシ配布)
 ・ 理容美容
 ・ 心のケアチーム
 ・ 炊き出し(ちなみに、5月2日は14団体7820食。 5月3日は15団体9110食)
 ・ がれき回収 漁具回収
 これだけのボランティア活動を、日替わりのボランティア軍団を率いて仕切るのだから、それはもう、凄いの一言。
 やっぱり、スタッフがいて、仕切り役がいて、そういうプロ的軍団がいないと、被災地への支援は回らないということだ。

 情報交換では、
 「車いすの提供ができます。 マッチングをお願いします!」
 「外国人ボランティア部隊が、7カ国7名来ています!」
 「落ちているものを記念に拾わないでください。 警察にも確認しましたが、窃盗罪になります!」
 「港中学では、5月3日までボランティアで歯の治療をしています!」
 「NHKの歌のお姉さんが、5月16日にみずほ幼稚園に来てくれます。 イベントのヘルプスタッフお願いします。 送迎と設営と心のケアです!」
 本当に、テキパキと会議は進む。
 こういう人に国会を仕切ってもらったら、不毛な日程闘争はなくなるんじゃないだろうか?! 

 この時点で、午後8時。
 本日の支援活動終了。
 車2台で、仙台に戻る。
 仙台東部道路を通って、仙台市のホテルへ。
 旅装を解いて、そして、一番町のおでん屋「三吉」へ。
 山岸さんお勧めの、有名なおでん屋ということで、朝4時起床で、5時に金沢を出発してから休みなくい働いた皆さんをねぎらう。
 そういえば、明日は荒井秘書の誕生日だ。
 みんなで前祝いの乾杯。
 そして、今日みてきた被災地の惨状を振り返りながら、これからどうやって復興に向けて支援しなければならないかを話し合う。
 「一過性の支援だけじゃだめで、継続的な支援が必要だ!」
 「子どもたちに生きる希望を与えなきゃ!」
 「仕事がなきゃ、生活できない!」
 などなど、夜も更けるまで、熱く語り合うのであった。  


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