衆議院議員
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はせ 日記
平成23年
4月15日(金)

4月14日
4月16日


■4月15日(金)

 3時19分起床、ニュースチェック。
 6時、自宅出発。
 6時15分、自民党本部で永岡桂子代議士、秘書の天野くんと合流し、一路福島へ。
 先週に引き続き、自分で運転して、2度目の被災地視察。
 下村博文代議士は、別働隊。
 後援会の皆さんと一緒に、学用品をそろえて出発した下村さん。
 現地の要請に応え、習字道具、絵具、ピアニカ、ノート、鉛筆などを揃えたそうだ。
 馳チームは、アクエリアス、爽健美茶、たばこ、ウエットティッシュ、お菓子など。
 残念ながら参加できなかった、公明党の池坊保子さんからは虎屋の羊羹が、遠山清彦さんからは水が10ケース届けられた。
 感謝。
 「ごめんねぇ、私から誘っておきながら、言いだしっぺがいけなくて・・・」
 と、申し訳なさそうな池坊さん。
 「いえいえ、それは政党の判断ですから。 うちは、行くならちゃんと現地の要請を聞いてきなさい、と逢沢委員長が快く本会議欠席を認めてくださいましたが・・・・」
 「いいわねぇ、あたしは前科2犯らしいから、だめなのよ・・・」
 「前科2犯って?」
 「よくわからないんだけどね!」
 と、いつもながら鷹揚な池坊先生なのであった。

 東北道路は、先週よりも空いている。
 しかし、福島に入ると、とたんに道路がでこぼこに。
 これも余震の影響か。
 緊張感を持って、ハンドルを握る。
 安達太良サービスエリア(あだたらサービスエリア)で、休憩。
 ここで、茨城県議会の飯塚副議長、神達県議のワンボックスカーと合流。
 永岡桂子代議士のチーム。
 こちらも支援物資(長靴)を持参しての視察。
 感謝。

 二本松ICを下りて、下道で川俣町から飯舘村へ向かう。
 のどかな春の陽気ではあるが、ナビには、「原発20キロ圏内には入れません!」の警告。
 そのとたん、村の様相はがらりと変わり、異様な静けさ。
 お天気は陽気なのに、村の中はまるで動きがない。
 緊張感が走る。
 生物が生きているという生活感がない。
 およそ335キロを走り抜いて、11時ちょうど、飯舘村役場に到着。

 ここで亀岡よしたみ前代議士や、下村さんと合流。
 下村さんは、福島市の避難所へと学用品を置いてきたらしい。
 役場2階に上がり、11時20分から12時半まで、意見交換会。
 対応してくださったのは、副村長と、広瀬教育長と、菅野農業委員会委員長。
 以下、主なやり取り。
 (門馬副村長)
 「どうして罹災証明書は飯舘村では出ないのか? これがないと、アパートにも入れないし、転学もできない!」
 「計画的避難地域の指定があり、それを閣議決定してからでないと、罹災証明書は出せないらしい。 総務省はまだ出していない!」
 「どうしてそういうことが遅いんだ! 我々はマスコミ報道や政府発表に振り回されっぱなしで、何の保障もない!」
 「飯舘村は大気も水もOK。 土壌だけが心配だった。 にもかかわらず、計画的避難区域に指定されて、全員が村を離れるなんて理解できない!」
 「政府の区域決定だけで、いまだに説明も保障もない。 不安でいっぱいだ! 避難所確保や保障の話をしてほしい!」
 「村民も家畜も農産物も、すべてダメになってしまう!」
 「明日、福山官房副長官が来るそうだが、説明だけなら要らない。 保障や当面の計画を出してほしい。 家畜をどうするのか、基本的方向性を示してほしい。 3000頭もいる。 持ち主によってみな考え方が違う。 廃業も視野に入れるのか?」
 「政府は早く強く行動を起こしてほしい。 スピード感のない政治に憤りを感じる!」

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 (広瀬教育長)
 「放射線から子どもをどうやって守るのか? 親元から川俣町へ子どもを通わせざるを得ない!」
 「4月20日に始業式とお別れ会を同時に行う。 スクールバスで通わせる。 福島第1原発が小康状態を保ち、終息することを願う。 子供や妊婦、高齢者などの生活弱者を守ってほしい!」
 「学校を隣の川俣町に移っても、学用品が何もない!」

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 (議長)
 「全村避難は村を捨てることになる、それはできないし、したくない。 子どもたちは避難先で、放射線が来た! 放射能が来た!とのいじめを受けている。 牛ですら栃木県は受け入れてくれない。 風評被害をどうにかしてほしい!」
 「年間被ばく基準を明確に示してほしい。 20ミリシーベルトから100ミリシーベルトの範囲内で、どうして計画的避難基準が20ミリシーベルトに合わされているのか?」
 「我々は、ここに住み、通勤することで、生命健康を守りながら経済活動を守ることができるのではないか! 工場があるのだから、屋内での仕事をすることを守ってほしい。 この村は、畜産と園芸と米と、そして工場勤務との兼業で生きている! その上で役場を守りたい!」

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 (菅野農業委員会会長)
 「 国策として、飯舘牛ブランドを残すと約束してほしい!」
 「国が責任を持って買い上げて、責任を持って再生させてほしい!」
 「飯舘村の全農地を、国家プロジェクトとして除染活動してほしい。 早く戻って生活をしたいんです!」

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 阿武隈山系の高原の村、飯舘牛のブランドの村。
 しかし今は、放射線に翻弄される危険な村とのレッテルを貼られている。
 その怒りたるや、凄まじい。
 政府が指定している「計画的避難区域」とは何ぞや?
 なぜに飯舘村、川俣町、浪江町、南相馬市(それぞれの一部)がその範囲なのか、これからどうなるのか、その間どう保障するのか!
 政治は、この疑問に応えなければならない。
 さらに、緊急時避難準備区域との線引きは何なのか?
 科学的な根拠を示して今後の指針を示すべきなのに、その事前説明が全くそれがなされていない。
 こういう重大な決定を、地元自治体への事前説明もなく発表している政府の姿勢は、やはり、間違っている。
 「飯舘村でのモニタリングを福島県に70か所させといて、その結果は勝手に文部科学省が発表する、とても信頼関係を損なうやり方だ!」
 との憤りもあった。

 飯舘村を出て、亀岡事務所の車を先導に、南相馬市へ向かう。
 山越えのつづら折り。
 行きかうトラックは、自衛隊か、レンゴー(段ボールの会社)の車。
 段ボール工場でも多いのかな? 

 午後1時から1時半まで、南相馬市役所で意見交換会。
 桜井市長と青木教育長に対応をしていただく。
 「南相馬市は20〜30キロ圏内が7割であり、20キロ圏内が15〜17%。 この圏内が避難している。 子どもたちは60%が市外県外に出て、区域外就学をしている。 20〜30キロ圏内の市民は40%がやむを得ず戻ってきて経済活動を再開しているが、生活環境が整わない。 銀行もスーパーも開かず困っている。 経済産業省の金融課長が出向してきている現状。」

 「市内の学校は、4月22日が始業式で、25日が入学式の予定。 20〜30キロ圏内の学校は安全確認されるまで再開できない。 子どもたちは、圏外にある鹿島区の学校に通わせるしかない。 体育館を間仕切りして教室にして再開するしかない!」
 「倒壊校舎は、小学校で2棟、中学校で1棟。 その周辺の町がすっかり流されてしまった以上は、現地での学校再開は無理、できない。 今後の市民生活の状況を見てからでないと、学校の再建もできない。」
 「現状は、市内にいた子どもの4割がとどまっており、6割が市外県外に出てしまった。」
 「今回の東日本大地震と津波と原発事故で、避難している人の4人に一人は南相馬市市民。 その窮状を国は理解し、支援してほしい! みな、生活を失っている!」
 と、窮状を説明していただく。
 「とにかく、通学や運動場使用などのために、子どもたちの健康基準を示してほしい!」
 「その上で、安全確認のための放射線計測機を配布してほしい! それが国の責任だ!」と。
 それに尽きる。
 ちょうど、徳田毅代議士が入れ替わりにやってきたので、意見交換を交替。
 病院経営をしている徳田さんの病院で、南相馬市から数十人の病人を受け入れているとのこと。

 懇談後、青木教育長の先導で、津波で1階部分が水没・泥まみれになった真野小学校を視察。
 グラウンドわきに大きな漁船が転がったままで、グラウンドには自衛隊車が出入りするのみ。
 もちろん、防波堤は流されており、周辺の町並みはすっぽりと抜け落ちてしまい、田んぼは泥だらけ。
 これじゃ、真野小学校は、ここでは再開できない。
 もったいないが、残った校舎は廃墟となるか、別用途に使うかしかないだろう。

 続いて相馬市に向い、午後2時20分から午後3時まで、立谷市長・安良(あら)教育長と意見交換。
 「とにかく、子どもたちを外で遊ばせる安全基準を示してほしい。 そのために放射線計測器が要る!」
 「相馬市の学校給食は自校方式。 学校は4月18日からで、給食は25日から再開します。 地産地消でやります。」
 「津波のみなしごが4人いてね、その子どもの養育支援が大切です。」
 「大地震や津波や原発被害の騒ぎで、病人避難者が次から次へと生活環境が替わり、死亡者が出てきています。」と。
 そこで、市役所近隣の避難所である「はまなす館」へ直行し、午後3時15分から3時半まで視察。
 この避難所では、石川県医師会のボランティア医療チームが5日交代で診療にあたっている。
 城北病院の斎藤先生や、小松市の開業医の小野江先生や医療スタッフを激励する。

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 午後4時、国道6号線を北上。
 宮城県に入り、ドライブイン跡で、山元町の森教育長や西村あきひろ前代議士と合流。
 この地域でがれき撤去、捜索活動を展開している金沢駐屯地の榎木副連隊長とも合流。
 愛知県の豊川駐屯地の岡本隊長も合流。
 頼もしい。
 被災地で自衛隊の車両を見かけたり、こうして活動作戦を展開する隊長にお会いすると、やっぱりほっとする。
 避難所の皆さんも同様に、自衛隊に対する感謝の念は高い。
 榎木副連帯長は、星稜高校14期生。
 レスリング部の高田浩先輩とは1年生の時にクラスメイトだった、とのことで、改めて先輩に敬礼!
 この榎木さんの先導で、海辺の中浜小学校を視察。
 途中からは、民間車両は入れない立ち入り禁止エリア。
 常磐線のレールはぐにゃりと曲がったままだし、何か所か流されたまま。

 午後4時20分より午後4時50分まで、まるで戦地かと見まがう荒漠とした海岸線沿いを視察。
 「ここは内灘の白帆台住宅団地のようなところだったんですよ」と、榎木さん。
 しかし今は見る影もない。
 捜索終了のしるしである、白い旗が棒の先にぶら下がっている光景がどこまでも続く。
 本当にここに町があったのだろうか?

 中浜小学校は、2階まで水没。
 子どもたちは、3階の屋根裏部屋で翌日救助されるまで身を寄せ合って生き延びたそうな。
 さぞ怖かっただろう。
 その屋根裏部屋からは、静かな海が見える。
 「毎朝、我々は遺体が上がっていないかあの海岸を散歩しています。 日に1〜2体は見つけています。 震災からもう1カ月がたっていますから、遺体の損傷は激しく、崩れないように引き上げています。 もちろん、老若男女の区別は尽きません。」
 その作業がどれほどすさまじく、そして尊いものかを承る。
 御遺体は火葬が間に合わず、とりあえず土葬。(数年後に掘り返して、改めて供養するのだとか。)
 気の遠くなるような作業であり、自衛隊の皆さんの活動に本当に頭が下がる。
 屋上には、国土交通省の海面監視カメラがあった。
 新築の校舎も体育館も、床がめくれ上がったままで、泥だらけで、そしてほこりまみれ。
 ここも二度と使えないだろう。
 中浜小学校周辺での本日の捜索が終了した、埃だらけの隊員の皆様が整列しておられたので、下村さん、永岡さんとともに感謝の言葉を申し上げる。

 午後5時、近隣の山下第2小学校へ。
 体育館には、自衛隊の皆さんが自主的に集めてきた、被災住民の思い出の品が整理されている。
 アルバム、トロフィー、賞状、メダル、制服・・・
 「我々自衛隊員も人間です。 それぞれに家族がおります。 他人事ではありません。 隊員が自然発生的にこれらを集めて整理ししました。 少しでも、これらの品物を手掛かりにしていただき、本人が特定されたり、想い出を残しておいていただきたいとの願いです!」
 と、榎木隊長。

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 午後5時40分 山元町役場へ。
 コミュニティラジオ「リンゴ放送」に出演後、避難所訪問しご挨拶。
 ・・・ここでもう1カ月。
 狭すぎる。
 この生活は、長くは続けられない。
 早く仮設住宅建設や、賃貸物件への入居を行政が仲介しなければならない。
 ここで視察時間タイムアップ。

 午後6時。
 高校生たちがボランティアに励んでいる。
 マキ割りをしたり、火の番をしたり、避難所を運営したり、救援物資を仕分けしたりしている。
 対応をいただいた自衛隊の皆さんや森教育長にお礼を申し上げて、東京へ戻る。
 東京に到着したのが午後11時半。
 全走行距離800キロ。
 運転17時間。 


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