『君はまだプロレスを知らない』 格闘技哲学宣言
まえがき私の心の中にはスクリーンがある。
道場に入ってトレーニングをしていて、ふと目をあげると、猪木さんのポーズ写真が目に入る。その写真を見ているだけで、猪木さんのことやプロレスについての未来像が、私の心の中のスクリーンに映し出されていく。
東京ドームで猪木さんと1対1の闘いをしたこと。
旧ソ連のシェレメーチェボ空港の荷物カウンターで選挙に出馬すると打ち明けられたこと。
選挙選で私が秘書につき、全国遊説したこと。
道場のリングの上で、プロレスのこれからについて語りあったこと。
それらすべての思い出が映画のように映し出され、そしてやがて鮮明に私の心にやきつけられていく。映像は1つのところに留(とど)まりはしない。プロレスの世界に生きて心のゆらぎがあるたびに、それはまた新しい映像としてストックされていく。
試合会場の控え室でのプロレスラー仲間との会話。
いつも行くパブの常連さんとの会話。
多摩川べりのランニング。
プロレス記者や評論家との会話。
リングに登場し、コーナーポスト上からTシャツを投げる時、その一瞬の観客の表情。
バックドロップでマットに叩きつけられるまばたきの瞬間。
対戦相手を思い切りなぐって、彼の顔面がゆがんだその時。
勝ってガッツポーズ。
負けて視線をマットに落としてしょんぼり。
花道を引きあげる両肩をバシバシ叩くファンの激励。
試合の後、流れ落ちる汗をぬぐうタオルの汚れ。
あらゆる光景の一場面がスクリーンに映し出され、やがて新たな映像として積み重ねられていくのである。そのスクリーンのオープニングが、道場の猪木さんのポーズ写真というわけだ。
プロレスについて考え、それを活字にすることは私の使命である。
「考え」は、心の中のスクリーンを見つめることから始まる。次々と映し出されていくスクリーンの中の映像を見つめることによって、私の「感性」は磨きあげられていく。心の中の映像は活字にとってかわることによって、現実となる。そこからが私の使命であるような気がする。
心の中にあったプロレスへの望み、飢え、渇きが、活字に姿をかえることによって、動かしがたい事実となって私にふりかかる。
「プロレスはこのままでいいのか?」
「プロレスとは何なのか?」
「プロレスラーって何なんだ?」
心の中にあった数々の疑問が、厳然たる事実として私に攻撃を仕掛けてくる。
書かれたものを見つめることによって、私は改めてプロレスへの執着を思い知る。
自問自答。その繰り返し。しかし現実から逃げていてはいけない。私のやらねばならないことは、「感性」を活字として残しておくこと。
スクリーンに積み重ねられた映像を現実の世界に引き出してくることによって、私なりのプロレスへのアプローチと展開を、プロレスファンやそうでない人にまでも知ってもらうことである。この本は、プロレス界の現在を見つめることと、未来への展望を提言したいという私なりの願いによって完成した。
プロレスについては、あらゆるマスコミが書いてくれている。それは第三者の立場として批評してくれているのであるから、私も素直に耳を貸している。しかしそれだけではつまらない。
私は時として自分自身を叱ることをしたい。自分がプロレスラーでありながらも、自分を批評し、批判し、問いつめる一面をも持ち続けていたいと願っている。
その第一歩がこの本である。
素直な自分の意見を読者の皆さんに聞いていただきたいために、私は今までしまっておいた心の中のスクリーンをオープンすることにした。
アントニオ猪木をスタートとする私のプロレス映像一つ一つ引き出し、読者の皆さんの前にさらけ出すことによって、馳浩のプロレス哲学が形(かたち)作られていくのではないかと思う。
「感性」を文章として表現することはむずかしいとつくづく思ったが、そうすることによって、今まであやふやでしかなかった方向性に、まとまりを与えることができた。
この本を契機として、さらに深くプロレスとかかわっていきたいとも願っている。
現在を見つめることによって、未来が少しずつ形を表し始め、明日が見えてくるのであるから、この本をスタート台にしたいと思う。
プロレスとはルールにしばられた競技ではない。他のプロスポーツとは違う。ルールという社会的制約をはみ出した部分にスポットを与えることも必要である。プロレスをする喜び、プロレスを見る喜びは、日常のルールからはみ出した野性の部分にこそある。そう断言してもよい。
プロレスラーに求められるルールとは、一人一人の「感性」である。「感性」というルールこそが、プロレスラーの個性を際立たせる唯一の武器である。
私はこれからも一プロレスラーとして強さを追求していきたい。強さという言葉の定義も一つだけではないから、誤解のないように言うならば、「人間としての強さ」と私なりに定義しておこう。強い人間であり、強いプロレスラーであり続けたい。
そのためにも、私はプロレスについて書くことによって、「感性」というルールに磨きをかけたいのである。
考えることによって、もっともっと心の中のスクリーンを幅のあるものにしていきたい。
現時点(1994年3月)で、私はプロレスラーとして8年のキャリアを持つ。
ようやく自由にものをしゃべることのできる立場をプロレス界で与えられようとしている。
実力と実績のないプロレスラーには発言の機会は与えられないのが、スポーツの世界のしきたりである。そして、発言することは、その半面自分の言ったことに責任を持たなければならないことでもある。
私はそれも十分承知の上である。むしろ、もっと責任のある立場になりたいと思う。
現役プロレスラーとしてのリング上での闘いと、原稿用紙との格闘こそが、私の存在の証(あかし)である。執筆はフィードバックでもあるのだ。この両輪あってこそのプロレスラー「馳浩」になる。
この本を多くのプロレスファンが手に取ってくださることを、切望してやまない。読んだあとにみなさんの意見とお叱りと激励の言葉をいただければ、なお嬉しい。皆さんの一言一言が、これからの私の血となり肉となることは言うまでもない。
プロレスについて考えることは、プロレスを愛することの証明だと思う。
プロレスについて考えることは、私の人生を考えることでもある。
プロレスについて考え続けながら、この世に生きた喜びを実感していきたいと思っている。
最後に、私の処女作であるこの本の完成にご尽力下さったPHP出版部の福島広司さん、中ヒトミさんに深くお礼申しあげます。
1994年3月
馳 浩
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